朝です。
今日もとってもいいお天気です。
「う…ん」
一輝はいつものように伸びをしてソファから起き上がりました。
そしてその辺に散らばっていたTシャツとGパンに着替えます。多分昨日脱いだものです。
洗面所で顔を洗ってちょっと髪の毛を整えてから一輝は寝室のドアを開けました。勿論ノックをして。中には一つのベッド。ブラインドが下がっていて太陽の光が入ってこない為、暗くてよく見えませんが誰かが眠っています。
「起きろ。もう9時だ。」
一輝はさっとブラインドをあげました。
部屋いっぱいに太陽の光が入ってきます。そこにいた瞬の顔にも。
ベッドで寝ている瞬を一輝は覗き込みました。瞬は眠っています。
「ほら、起きるんだ。今飯作るから。」
一輝は寝室を出てキッチンに立ちます。
いつも外食で済ませていた一輝がキッチンに立ち料理をするなんて珍しい事です。一輝がこんなふうに料理をするようになったのは城戸邸から少し離れた所に在るこの一輝のマンションに瞬が来てからです。瞬が来てもう結構経つのでキッチンに立つ姿も様になってきました。
一輝は右手で上手に卵を割ると、慣れた手つきでしゃかしゃか混ぜはじめました。冷蔵庫からトマトとレタスを出してトースターには6枚切りのパンを2枚セットしました。トマトを洗って上手に切ります。レタスも軽く洗って白いお皿に2枚ずつ乗せました。火にかけたフライパンの上でさっきの卵をしゃっしゃっと混ぜます。味付けもちゃんとして…そう、スクランブルエッグです。そしてコーヒーメーカーのスイッチを入れました。本当は瞬は紅茶が好きなのですが、まあ、兄弟なのでそこまで気を使う必要もないでしょう。
一輝はトレイにスクランブルエッグと焼き上がったばかりのトースト、コーヒーポット、苺ジャムを乗せて寝室のドアを開けました。
「今日はおまえの好きなスクランブルエッグだ。」
一輝はベッドの横にあった小さな硝子のテーブルを引き寄せて、トレイをそのまま置きます。
「小岩井のバター切らしてたんだ…ジャムでいいな。」
一輝がカップにコーヒーを注ぐと、柔らかく湯気が上り、コーヒーの良い香りが部屋中に漂いました。
「ほら、起きるんだ。」
瞬はベッドの中に入ったままです。仕方ないので一輝は瞬を起こしてあげました。そしてその後、瞬のパンにジャムを塗ってあげます。
「ん、砂糖…。」
コーヒーを飲もうとした一輝はいったん部屋を出て、砂糖瓶を片手に戻ってきました。瞬のカップにふたつ、そして自分のカップには付き合いばかりに…とひとつ入れました。
「さあ、食べよう。」
でも瞬は一口も食べようとしません。仕方ないので一輝はスプーンでスクランブルエッグをすくって瞬の口まで運んであげました。でも瞬は上手に口に含めずこぼしてしまいました。
「…しっかり食べろ。」
一輝はコーヒーを差し出しましたが、瞬は受け取ろうとしません。コーヒーはやっぱり嫌だったのかな、と一輝は瞬を覗き込みます。
「…食べないと栄養取れないぞ。」
でも瞬は一向に食べる様子がありません。
仕方ない、と一輝は諦めてレタスをつっつきながら別の話をはじめました。
「食べ終わったら買い出しに行く。瞬はどうする。留守番してるか。」
瞬はこくんと頷きました。
「そうか。じゃあこのまま出しておくから気が向いたらちゃんと食事しろよ。」
一輝はそういってパンをコーヒーで一気に流し込むと、自分の食器だけキッチンに下げました。
それからクローゼットの鏡の前に立って軽く身形を整えると、ダイニングテーブルの上にあった車のキーを掴んで外へ出て行きました。
太陽が少し西に傾いた頃、一輝は随分とゆっくりな買い物を終えて帰ってきました。
両手には一体何を買ってきたのか紙袋やらビニール袋やら沢山提げています。
「ただいま。」
一輝は神戸屋の袋をダイニングテーブルの上に置きました。
「ビデオ屋に行ったら『白雪姫』があったから借りてきたぞ。あと、『ライムライト』。
新しくなった『白雪姫』見たいって前言ってただろう?神戸屋を食べながら見るか。」
TVの前の小さなテーブルにビデオ2本と、少しのパンを置いてから一輝は瞬のいる部屋を覗きました。
「瞬。」
瞬は朝と同じ様にベッドに座っていました。朝食はあまり食べなかったようです。沢山残っていました。無理強いをしても仕方ない、と一輝は食器を下げました。
「…林檎を剥いてやる。林檎ぐらいなら食べれるだろう?」
一輝は瞬をTVの前のソファまで連れてきてからビデオをデッキにセットしました。『ライムライト』が静かに始まります。一輝が林檎の入った硝子鉢を片手に再び瞬の横に戻ってくるまでそう時間はかかりませんでした。
夜も大分ふけてきました。外では雨が降り出した様です。ビデオも『ライムライト』から『白雪姫』に変わっています。白雪姫のところへ魔女が毒林檎を持ってやってきたときです。
ピンポーン。
マンションのチャイムが鳴りました。
『白雪姫』に大して興味がなく、ウトウトし始めていた一輝も目を覚ましました。
「誰だ…?」
一輝が玄関ドアを開けるとそこには氷河が立っていました。
「氷河…。」
「一輝…瞬、いるんだろう?」
氷河が瞬の名前を口にした瞬間、一輝の表情が静かに変わりました。
「駄目だ。帰れ。」
一輝は氷河を玄関の外へ肘で押し戻すと、さっさと振返って瞬の隣りへ戻りました。
「一輝っっ!」
氷河も部屋に入ってきました。
「帰れと言っただろう。」
「一輝!瞬は…」
「城戸はこんな状態の瞬にまだ何かさせる気か。」
一輝は瞬を自分の側へ寄せると、氷河を静かに睨み付けました。
「そうじゃない!そうじゃなくて…」
「何がそうじゃないんだ。」
一輝は氷河の言葉に静かに、しかし力強く反論します。
「記憶も感情も言葉も失った瞬に、今度は何をさせるつもりだ。」
「一輝!!」
「まだ闘わせ足りないのか。それは随分と勝手な贅沢だな。」
「違う…!!」
「俺は反対だ。だからこそあの屋敷から瞬を連れ出した。もうこれ以上瞬に何かさせようとするな。
お前も瞬の事を思うなら瞬に普通の生活を送らせてやれ。」
「一輝…!」
一輝は声を荒げることはありませんでしたが、その言葉には断固とした強い拒絶の意志がはっきりと感じられました。そう一輝は静かに、でも物凄く怒っていたのです。声を荒げない分、いつもよりもずっとずっと強く怒っている様に氷河は感じました。
そのとき、瞬がすぅっと一輝の肩に顔を埋めてきました。
「大丈夫だ、瞬。もう誰もお前を傷つけないから。」
一輝は埋められた瞬の頭をそっと抱寄せると、氷河を強く見据え今までに無い強い口調で言いました。
「出て行け。今すぐにだ。」
それからは氷河が何を言っても無駄でした。何を言っても一輝は「出て行け」と言うだけでした。
仕方なく部屋を出ても氷河はマンションの廊下で暫く俯いて動けないままでした。それでもいつまでもここに居る訳には行きません。
徐に氷河が一歩足を踏み出した時でした。氷河の足元にぽたんと水滴が落ちました。と、同時に氷河は廊下の手すりに手をかけて、その場へ崩れ落ちてしまいました。
「俺だって…」
次の日の早朝、何処かの企業のパーティーに出席した沙織嬢の護衛に付いていた紫龍が、ようやく職務から開放され城戸邸へ帰ってきました。溜息を吐きタイを緩めながらラウンジの前を通ると、氷河が革張りのソファにそれは深く倒れ込んでいました。どうやら昨晩帰ってきて、そのまま眠ってしまったようです。
「氷河、風邪を引くぞ。」
紫龍がそっと声をかけます。
「…紫龍…」
氷河はしなやかな金髪を掻きあげながらながら、重そうに顔を持ち上げました。紫龍が持っていた缶コーヒーを差し出します。氷河はそれを受け取り一口飲みましたが、また俯いてしまいました。
「一輝…か?」
紫龍が氷河に聞きます。氷河はこくりと頷きました。
「…どうだった?」
また紫龍が聞きます。氷河は黙って首を振りました。
「そうか…。」
紫龍は窓から空を見上げました。空はゆっくりと白くなりはじめていました。
「何で…」
「ん?」
「…何で俺はこんなにもいつもと変わらないんだ…!」
「氷河…」
「俺と一輝はそんなに違うって言うのか…」
昨夜降った雨の匂いが白い太陽の光と一緒にじんわり立ち上って行きます。
朝露がつるんと濃い緑色の葉っぱの上を滑ってゆきます。
いつもと何も変わらない清々しい朝。今日も気持ちいいお天気のようです。
そんな雲の輪郭を鮮明に映しはじめた空を見ながら、紫龍は言いました。
「よっぽどショックだったんだな…瞬が死んだの…」
狂いたかった氷河。
狂えなかった氷河。
それはどっちも氷河なのです。
そして一輝は今日も瞬に挨拶をします。
「おはよう、瞬。」
今日もとってもいいお天気です。
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