愛しすぎて


「寒…」
夏であろうと冬であろうと季節に関係なくシベリアの大地は冷え乾いているものだ。それが12月の終りともなれば寒度も最高潮に上向きになる。初めてこのシベリアに足を下ろした瞬は、想像以上の寒さに耳を赤く染めていた。
「その内慣れる。」
瞬が肩を窄め、細かな歩幅を刻んでいるのに対し、氷河は随分な薄着と大きな歩幅で凍土を踏締めてゆく。
「慣れないよ、こんなの。寒いを通り越して痛いじゃないか。」
「ここで生まれ育った俺に対して、随分と失礼な事を言うな。」

氷河と瞬は聖域の勅命により、シベリアの凍土調査にきていた。
この凍土調査は年に数回実施されている物であり、その調査役は順番に聖闘士に周されていた。しかし、流石に八十八も星座があるとその順番が周って来るのも遅く、そのような調査がある事自体知らない聖闘士もそれなりの数で存在していた。そして、
瞬もその内のひとりだった。
「え…シベリア?」
沙織に執務室に呼び出され、その任務を直接告げられたときの瞬の第一声は、守護する女神を目の前にして随分と否定的な響きを含んでいた。
「だったら氷河に行かせればいいのに…」
瞬の不満に満ちた呟きに沙織が出した答えは「それもそうね。では氷河も同行させましょう。」だった。


「そういう意味で言ったんじゃなかったんだけどなぁ…」
ぼそぼそと白い息を吐きながら瞬は氷河の後を歩いて行く。瞬の数歩前を行く氷河は、その手に紅の花束を抱えている。氷河はシベリアに寄る機会があれば、その度に氷原に花を手向けていた。今回も凍土調査が済んだ後、徐に「寄っていいか」と瞬に尋ねた。瞬はそんな事を尋ねられる前から寄る物だとばかり思っていたから、氷河が自分に伺いを立てた事に軽く驚きながらも快く承諾した。
氷河は氷原の真中でぴたりと足を止めると、そこにそっと紅い花束を置いた。
目印も何もない所で、よくその場所が判るなぁと瞬はぼんやりとその花束を眺めていた。
「クリスマスイヴに来れるなんてマーマが喜ぶ。」
氷河は氷の地に左手を着き小さく微笑んだ。
「俺と違って、敬謙なクリスチャンだったからな。」
「…氷河は違うの?いつも大事に持ってるじゃない十字架。」
「あれはマーマの形見だからな。お守りみたいな物であって信仰はそれ程厚くないよ。」
氷河は少し苦笑いを浮かべてから、再び氷上に向き合うと、左手を着いたまま目を瞑りロシア語でなにやら呟いた。きっと祈りの言葉か何かなのだろう。瞬は氷の上に膝を付き祈りを捧げている氷河を、立ったまま黙って見つめていた。程なく氷河は瞼を開
き、すっと立ち上がり瞬に向き直った。
「さて、行くか。」
氷河の台詞に瞬は少し驚いた。てっきり潜るものだと思っていたのだ。
「あれ?潜らないの?ちょっと期待してたのに。十八番の素潜り。」
「…誰に聞いたんだ、そんなの。」
「ヤコフ君。」
「……」
ここに来る前に寄ったあの村で、氷河が所用を済ましている間に聞いたのだろう。
ヤコフの奴…。
氷河は少し気まずい顔をしてから、笑った。
「もう止めた、潜るのは。」
「どうして?カミュに沈められたって聞いたけど、別に行けないような場所じゃないんでしょ?」
「まあな。でも…」
愛し過ぎたんだ。
氷河は真白な氷原にポツリと咲く真紅の花束を見つめて言った。
「俺は愛し過ぎて、その為に失った物が多いんだ。カミュもアイザックも。マーマだって俺が愛し過ぎたが為に、より深い海溝へ沈んでしまった。」
「だから潜らないの?」
「そうだ。これ以上マーマを暗く狭い所へ追い遣りたくないからな。」
「……。」
「だから、俺はお前にも優しくしない。」
一呼吸置いてから、氷河は花束から瞬に視線を移した。
「お前の事を大切にしない。」
「いいよ、別に。」
少し首を傾げて氷河の視線を亜麻色の瞳で見つめ返すとその目を細める。
「僕がその分君を大切にするから。」
瞬の台詞に氷河の動きが静かに止まる。
「僕は想い過ぎて失った人なんていないから。僕は想えば想う程、皆、僕の側に戻ってきてくれた。」
「だから、君が僕を想わない分、僕が君を大切にするよ。」
二人の間を、シベリアの乾いた風が通り抜けて行く。

「これで君が僕を大切にしなくても±0だ。」

瞬はぶるっと身を縮込ませ、コートのフードを被った。
「瞬…」
氷河が瞬にそっと手を伸ばした。が、瞬はすっと身をかわし、その手を上手くやり過ごした。
「さ〜むい!早く村に戻ろ。」
氷河は、伸ばした継取り残された自分の右腕を見ながら、決まり悪そうに独り苦笑した。
「そうだな。さっさと日本に帰ろう。」
そう言って氷河は、歩き出した瞬の隣に追いついた。
「城戸のクリスマスパーティーに間に合うかなぁ。」
「時差があるからな。まぁ、自家用ジェットを飛ばせばなんとかなるかもな。」
「本当!?じゃあ急がなくっちゃ!今年は七面鳥ひとり一羽だってよ!!」
「そんな訳あるか。」
「だって星矢が騒いでたもん。」
「星矢の騒ぎに信憑性はない。」
「でも、本当かもしれないじゃん。早く戻らないと星矢に僕等の分も食べられちゃうよ!ほら、早く!!」
「うわ!…っと!!おい、瞬!!」
瞬は、手袋をしていない氷河の素の手をぎゅっと握ると、冷たく乾いた風を切裂きながら村に向かい走り出した。瞬の手はこのシベリアの地に似つかわしくない程に暖かかった。

ふたりの姿はあっという間に小さくなり、氷上に咲いた真紅の花束がだけがその背中を見送っていた。



「愛しすぎて」後書

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